発芽玄米誕生秘話
「発芽玄米は21世の主食」 ドーマー株式会社 塚原菊一 社長

 1995年1月17日未明、塚原菊一(53)を乗せた夜行バスは、神戸市内の高速道路上で激しい揺れに見舞われた。多数の被災者の人生を暗転させた阪神淡路大震災。それは企業人・塚原の人生をも大きく変えることとなった。
 この震災体験が起点となって塚原がこれまでは、なにびともなすことがなかった「発芽玄米」の新事業に取り組むこととなった。
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ファクトリー
 震災体験のあと、知人と食料の話をしていて、「玄米を一定条件下で水につけると芽が出る」と教えられた。試行錯誤しつつ塚原は少しでも食べやすく、少しでも栄養リッチで、調理のしやすい発芽玄米の開発に着手した。調理がしにくい、食べにくい、味が悪い、消化が悪いと言われる玄米だが、塚原のひらめきにより大変身をとげた玄米「発芽玄米」を作り出すことができた。
 一定条件下で玄米から約1ミリ程度発芽させる「発芽玄米」は、たんぱく質、ビタミン、ミネラル、など玄米の高い栄養価を保ちつつ、玄米より食べやすくおいしいことで知られ、健康ブームにのって、市民権を得た。その開発は塚原の小さくも壮大な"実験"が発端だった。 
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 当初、冷凍保存した商品の通信販売を始めたが、炊くと独特のにおいがあるのが弱点だった。そんな時、栄養価が高いことに目をつけた茨城県内にある食品総合研究所の呼び掛けで、商品化の共同研究を始めた。
 従業員1人を研究所に派遣。細々と続けた事業の売上げでコメを買い、研究材料として送り続けた。3年後の98年、殺菌のため過熱処理することで、においを消すことができ、真空パックすることで常温保存も可能になった。
 しかし、宣伝力が弱く、消費者に買ってもらえなかった。「売れないし、金はかかるし。事業化をあきらめようと思うこともあった」と塚原。それでも、東京に家を借り、自らセールスに歩くこと半年。「これが最後」との思いで企画した商品説明会で、化粧品や健康食品の製造販売で知られる会社に声をかけられた。
 99年夏、共同で新会社を設立してCMを流し、テレビ番組で取り上げられ、発芽玄米の知名度は急上昇。商品が売れ始め、塚原とドーマーは、発芽玄米のパイオニアとして知られるようになった。
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 その後、商品をめぐる製造・販売戦略の違いから、両社の提携は解消されたが、市場は拡大。味へのこだわりから、塚原は水分が豊富なタイプの商品開発を進め、事業は軌道にのった。
 地元の上田・小県地域の小中学校の学校給食にも取り入れられ、学校関係者からも「おいしい」「子供が休まなくなった」と好評を得る一方で、発芽玄米を材料にしたドーナツなど菓子の開発にも力を入れる。
 「常に前向きだったことが、ここまでやってこられた秘けつかもしれない」という塚原は、「発芽玄米は21世紀の健康食。上田から、新しい米食文化のルネサンスを起したい」と大きな夢を語った。